🤔ここ最近のあれこれ
今年一番の山場、9月中旬〜10月下旬までの大出張月間が始まる
「YOKOKU Field Notes #3 インドネシア編」のリサーチで二週間インドネシア中を飛び回る
帰国して早々にいちやなぎの書店ツアーと、東京レコ発に向けて東京滞在
そのまま『さばえまつり』のために鯖江イン
上記の合間に初の愛車となるエクストレイルを回収
駐車場が狭く、駐車の難易度が高くて笑う(西陣クオリティ)
大米米穀店のお米がピカピカでおいしい
🌶言葉を残さなくてもよい、熱を残せれば
鯖江に到着した頃には、金木犀の香りが漂っていた。ちょうど暑さも過ぎ去るタイミングでインドネシアに旅立っており、一人だけ夏に取り残された気分だったがようやく五感が秋に追いつく。
しかし、秋にも関わらず蚊が多い。そして今年は妙によく蚊に刺される。そんなことをまつりの家の2階で、布団の中にまで襲いかからんとする羽音を耳にしながら考えたりする。『さばえまつり』の準備期間、10月も中頃だったが今年は例年より2-4度ほど平均気温が高いらしい。温暖化の影響だろう。
よくよく考えれば「まつりの家」とはすごい名前だ。これだけでなんのために存在しているかが一発でわかる。事実、まつりの家は今年初開催となった『さばえまつり』の拠点の一つとなっていて、もとはと言えば実行委員長である田野さんの生家の離れだ。それを気前よく、祭りのために一軒まるっと貸してくれたのだ。
普段は、『さばえまつり』のために地域おこし協力隊として移住してきた事務局メンバーの中川ちゃん(通称:ダンプ)の住居ともなっているが、祭りに使う素材や道具をたくさん置いているし、いろいろな作業を行ったり、日夜入れ替わりやってくる人、人、人の影響で家が散らかり気味なのは言うまでもない(空き家がそもそも汚かった説もある)。飲み会のたびに、滞在しているメンバーが翌朝大量の洗い物とゴミ捨てをしているだけでも偉いというものだ。
そんな拠点をベースに幾夜も過ごした期間ははや半年を超える(くらいだと思う)。昨年の夏頃に堤と発起人の森くんが日本への帰国が決まったタイミングでアイデアを話し始めた『さばえまつり』。一年と少しと準備に時間がかかったが、無事10月20日(日)に開催することができた。雨で19日(土)は中止となってしまったものの、「つくるを祝う祭典」というキャッチコピーにふさわしい一日ができあがった(と信じている)。
その手応えに関しては、祭りが終わっても盛んに動き続けている(むしろ加速している)事務局のDiscordと、誰しもが「あるかわからなかった来年」について話し始めていることが何よりの証拠だ。かくいう自分も、近年他にないくらいには心のタガが外れそうになったし、想定の2歩か、3歩ほどは素晴らしい光景がつくれたのではないかと感じている。身体が妙に火照るのは日焼けのせいだけではない。
🌶〈西山公園〉の邪気のなさにはレッサーパンダが貢献している
『さばえまつり』について「なにがそんなに良かったのか」と聞かれると正直、回答が難しい部分がある。こうした回答の難しさこそがあのお祭りの素晴らしさで、言語化の局地にあったのが『さばえまつり』だったということだろう。
確かに、馬喰町バンドと時間をかけてつくりあげたイッココ音頭でみんなが輪踊りできたこととか、エレクトロニコス・ファンタスティコス!と地元のギークたちがつながっていく瞬間とか、副産物楽団ゾンビーズの練り歩きに高校生が合流していく光景、ミナブタ(みんなで舞台に立とう)のメンバーが持ち前の瞬発力で海外ルーツの方と踊り狂っていたりとか要素を個別に書き出すことはできる。ただそういった一つひとつであの感動を説明するには片手が落ちる。
それが地域のお祭や、はたまた音楽フェス的なるもののあり方とは根本的に違った部分だと感じていて、「その場にいることの肯定」や「その場を共有できることの嬉しさ」、「つながろうとも、つながらなかろうともよい、あなたとわたしがただそこにいる喜び」みたいなものがそこにあった。それも縦断・横断的に。
この辺りは祭りが終わったあとの中川ちゃんの日記メモ(一人ひとりデイリーで日々感じたことを書き残していた)にその感覚がよく出ている。
定型化されて、タスク化されていくとこの感じにはならなさそうだよなあ。
一つ一つに意思決定があり、その時の最適を選んでいくことってしんどいけど大事なんだよなあ。
タスク化されて「このお祭りにはこれがあう!」みたいなラベリングをされるのがちょっともやっとな気持ちになるなあ。
「去年は子どもが多かったから、輪投げをやろう」みたいな、そういうことはなんか嫌なのはなんでだろうなあ。
作った人たち(さばえまつりに関わった人たち)の手の中にあってほしいというか、独り占めしたいわけではないんだけどこの感覚はなんだろうか。
ターゲティングとかされていった瞬間に手から離れていくような気がするんだよなあ。
個人としてもこの1,2年は「言語化」なるものに抗ってきた時間だった。飛びつきたくなるわかりやすいラベル、時代が求めるスピード感とは一定の距離を取りながら(完全に見放すわけでもなく)その合間の潮目の中で「伝わらなさ」に向き合う。この結末は、こうした辛抱強さの先にあった光景だったのではないか。
そしてそれを実現させたのは、「わからないなりに一緒にもがくことをした」事務局メンバーだ。
中川ちゃんを筆頭に、追い込みの一ヶ月で参加してきたぐちこや、がらぱごすが一気にムードを変えてくれたし、それまでの期間に学生ながら住み着いて祭りの活動を日々下支えしてくれていたえんちゃんや、實田のことも忘れてはならない存在である。地元の顔である田野さんの存在や、デザインを全面で支えてくれたちーこさん、市役所員の太田さんや元・RENEW事務局長のなつかちゃんのことも言わずもがな。
また最も印象に残っているのは今年異動によりお祭りに多くは関わることのできなかった鯖江市役所員の横井さんが、終演後に黙々と一人で重い荷物を片付けている姿である。「場づくり」的なるものへの言及は箱ものへの批判に始まり、その後に仕組みの話へとたどり着くことが主だが、どこまでいっても結局は人と、泥臭さを被ることを厭わない精神なのだと改めて強く感じる瞬間だった。
良いチームがあれば挑戦ができる。そしてそのチームの限界を超える「誰かに頼らざるを得ない状況」が、さらに多くの人が関わる余地を生み出す。手に負えない物語に挑戦することが「人と関わる術」になりうるのであって、そう思うと「祭り」は夢を現実と地続きにするための装置なのではないか。
肉体的にまったく回復が追いついていないところにボロフェスタのスタッフをやっていた頃からの加齢を感じるが、まだ多幸感は継続している。会うたびにこの話をしてしまいそうで恐縮だが、しばらくお付き合いいただきたい(インドネシアの話もしたいし、メールマガジンに残しておきたい!)。
写真:片岡杏子